昭和52年11月10日 朝の御理解



 御理解 第17節
 「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」

 信心が分かっておれば、氏子から切ると言った様な事は先ずはないと思うんですけれども、信心が分かっていないところから、折角の御神縁を頂きながら、その縁を自分から手放して行ったり、自分から切って行ったりするのです。問題は信心が分かっておれば、自分の物になっておれば、切ろうにも切れないのがお道の信心です。例えば切ったと言うても、例えば親子の縁と言った様なものがそんなに簡単に切れるはずがない。
 もう例えば切っておる自分が積りでおっても、信心が最近言われる親と子の関係に置いてです。の信心が分かれば分かる程、願わずにはおれぬ、縋らずに居れないと言う事に」なるのですから切れと言うても、言わば切れるはずはありませんけれども。さそこがお互いが信心の稽古をしておりましても、やはりそこまでのおかげを頂けない。もう亡くなられたそうですけれども。
 以前此処で総代の御用まで頂いておりました、千足から参って来とりました立川さんという方が、大変真面目なよい信心をしておりました。ところが経済問題で大変苦しいところに立っておりましたが、丁度一番最後にお参りして来たのが、金策のために北九州の方へやらせて頂くと言うて、それから四、五日参って参りませんから、まだ北九州の方から帰って来てないものとばっかり思ったら、そこへ手紙が参りました。もうそれはその冷淡なちゅうか、その実にえげつない手紙が来たんです。
 ところがね、創価学会に入ったんですね。ですから創価学会では、ああいうふうに書かんならんごとなっとるそうですね。そりゃもう金光様の悪口から、そのもうやっぱ縁を切るのですから、あんなふうにえげつのう言わにゃ切られないわけです。勿論おとなしい人ですから、自分で書いたですけれども、書かされたという感じでしたね。それから数年、随分総代さん方も手を尽くして、またお導きに行かれましたけれども、がんとしてまあ言うことを聞かなかった。
 反対に「創価学会が素晴らしい」と言った様な事を言っておりましたが、北九州の方へ金策に行った所が創価学会だったらしいですね。それでならあんたに金を貸してあげるから、「金光教の信心を止めるなら貸してやる」と言うたそうです。だからもうころっと参ったんです。そんなにまあよい信心してましたけれどね。だから結局信心が分かってなかったというよりほかはないのです。ただおかげを頂かなんならんから、苦しいまぎれにただお参りして来とったということになるのです。
 だから金を貸してくれるという人、「そんなら金貸してやる代わりに創価学会に入れ」と、「金光教をやめろ」と言われてやめて、もうその場で言うならば教会へ宛てて手紙を書かせたのだろうと、これは私の想像ですけれども。それからすぐやっぱり十年余りは何とかかんとかやっておられましたけれども、いよいよ又あのいけなくなって、そして最近聞いた話では亡くなられたと言う事です。
 もうそれは最近もうまあ言うならば、尾羽打ち枯らした状態で、何か行商の様な事をしておって、もう本当に私はその本当に悲しいまでの祈りを送りましたけれども、私の祈りが足らなかったと思っているわけですけれども。そのようにしてですね、やはり分かっておる、総代までさせて頂いておるから信心が分かっとると言う事じゃないですね。あれは信心が出来ておるから総代というのじゃないです。
 やっぱし神様の御都合でのことですから。それでもうそういういよいよ難儀に直面いたしますと、それこそ神様との縁を自ら切ってしまって、そしてそれでまあ、立ち上がりが出来れば、まだそこに救いがあるのですけれどもね、ますます困って行ったという話を聞いて、本当に悲しいことだと思います。天地の親神様もさぞかし、やはり人間の難儀の底がわからぬ程にですね、「波紋ひろげて沈み行く石をまた投げぬ、めぐりの底を知らぬ人の心に」と言った様な御教えを頂いておる時分でしたよ。
 本当にその難儀そのもの難儀、例えて言うと、同じ野菜なら野菜でも、畑の中から取って来てすぐ食べられる野菜もあるでしょうが、トマトやらキュウリやらというのは、生ででも言うなら食べられるわけ。けれどもならごんぼのような、野菜は生で食べるわけにはいけんでしょう。やっぱり灰汁(あく)を取ったり、いろいろ手を加えなければ出来ません。また皮をむかなければ食べられんのもあるし、熱湯をくぐらせなければ食べられないのもあるし、もうそれこそ煮た上にも、柔らかに煮らなければ食べられん、野菜もあるようなもんで、
 人間の言うならば幸不幸と言った様なものも、めぐりの程度っていうのはそうなんです。まあ言うならば、簡単にさあっとおかげの頂けれる人。願っても願ってもおかげの頂けない人。それこそひと皮むかれただけでもおかげの頂けない人。その上吊り下げられたり、熱い熱湯にくぐらされたりと、してもまだおかげの頂けん人。そこで信心させて頂いておいて段々段々分かって来ると言う事は、自分が分かって来る。
 自分自身が分かって来ると言う事と同時に、言うならば自分の身のめぐり、家のめぐりの言わば、浅さ深さが自分ながら感じられて来るようになるです。考えて見ると、本当にめぐりというものはどうにもしかたがないな。このめぐりのお取り払いを頂くと言う事は、言うなら天地に対する借金のようなもので、言うならば支払うても支払うて、もまだ利払いだけだと言った様な、沢山の借金をもっておる人もあるわけです。だから一様にはいかんわけです。
 ところが信心を頂いて段々おりますとね、それを感じるように、分る様になるです。私の身のめぐりのこと、また家のめぐりのこと。段々よくよく分らせて頂くと、そのめぐりが深ければ深い程、おかげが大きい、深ければ深い程、力を得ることが出来る、お徳を受けると言う様な事が分って来るとね、それもなおやはり神愛だと分りますけれども、そこまで信心が分かれば、だから問題はないのです。
 このめぐりのおかげで信心が出来ます。めぐりのおかげで言うならば力が頂けるという事実をね、知るところまで参りますと信心は揺るぎません。だからめぐりはもう本当に、めぐり様々で実はあるわけなんですけれども、それが中途半端な時には、「とても私のごたるめぐりの深かとはとてもおかげ頂ききらん」と言うて、自分から手を放す様な事になりかねないのです。信心しておってもこの位なんだから、もし信心がなかったらどう言う事になるか分からないと言う様な心がね、段々出来て来るんです。
 そういう信心が続けられて行くところから、昨日正教先生が正奉仕をしておりました。御用日誌に書いております中に、「最近言われる願いの信心というのは、本当は頭で分かると智で、智情の智ですね、智では分からない。分かってもそれは血に肉になるというのではない。どこまでも願いの信心を分かるためには情の信心によらなければ」という意味のことを書いております。
 情でつながって行く。例えばね、親子の情を以てつながって行く以外にない。「成程親神様じゃな」と、それこそ叩きながら、神様が泣き泣き叩いておられると言う様な事実をです。自分の信心の上に感じられるようになると、「只々神様すみません」と言う事になってくる。そういう一つの情感を通して分かるんだと言う風に書いてるけれど、確かにそうだと思います。頭で理屈を聞けば分かるようであって、実際は分かってない。そこに言うならば、自分から神の綱をはずして行くと言った様な事になる。
 昨日研修が終わってから、四時の御祈念をさして頂いたら、研修の時に私が皆んなに「今日の御理解、昨日の朝の御理解を頂いて研修した上で、どう言う風に分かったか」という問題を出しましたら、みんな「分からん」と言うんです。竹内先生だけが「分かった」とこう言う。恐らく末永先生に聞いたら、末永先生も「分かった」とこう言うだろうと思うんです。まあ今二十何名かおりますでしょうか、その修行生の中に、言うなら一、二名の者が「分かった」と言う。
 「がっかりするごたるね、あんたどんそげん分かっとらんと」とこう言うたもののです。実際もう正直に「分からん」て言ってるんですから。ところがよくよくやっぱり考えて見ると難しい、なら竹内先生でも「分かっておる」と言うておるけれども、体験の上で分かっておるとじゃない。合楽の信心を子供の時から見て来てる。聞いて来ておる。そして私が頂いておる、言うならばおかげ。一切が神愛と例えば分かると言う事でもです。それを「分からない」とこう。
 なら合楽の場合、例えば長い間合楽の私の信心を見て来ておればです。様々なことがあった。問題もあった。本当に情けない思いもすることもあったけれどもです。そういう大きな問題があったり、血の涙が流れるようなことがあったたんびんに、合楽は飛躍をしておるという、事実を見たり聞いたり、実際にしておらなければ、「分かった」とは言えないような問題だったんです。
 「分かりません」と言う。本当にしてみると、それなら合楽の沢山信奉者の方達がです、「あなた方が本当に一生懸命信心の稽古をしよんもんに、しとっても分からんのだから、分からんのが本当だなあ」と言うて、まあ最後は申しましたことでした。例えば一切が神愛と本当に分かったら、神の綱を放すことは絶対にないですもんね。「分からん」と言うのが本当だと。と言う事がまあ言うなら、私も分かったわけです。
 だからもういよいよ、天地の親神様と私共との間の中に交流するものをです。感じれれるところまで、こちらの信心を進めて行く以外にない。その手立てが、様々なその手がかりになる、または足掛りになる所を、合楽の場合は説き示されるわけであります。今教団で一つのスローガンです。あの宣言文というのがあります。「自然の働きと私共の生き方とは、調和を以て保たれて行く」という意味の宣言文がありますね。
 だから教団でそういう、言うならば素晴らしい一つのスローガンというか、信心の目的と言った様なものを示しても、それならそういう自然の働きと私共の行き方とが調和のとれた行き方を、「こういう信心をすれば出来る」と言う事を誰も説いてくれない。だから、あってないようなものだと。本気で取り組んだところで、どう取り組んだらよいか、それが事実は分からないというのが本当ではないかと言う事を、昨日は金光青年に書いておられる先生がおりました。
 そこでその一説を読ませて頂いて昨日、研修させて頂いたんですけれども、成程そうだということです。そこでです。合楽の場合はそういう天地自然の働きと、私共とのかかわり合いということの理屈を説くだけではなくてです。その調和音とでも申しましょうかね、天地との調子・調和がとれれる行き方を、「成り行きを大切にする」とか、「黙って治める」とか、言うならば、「天地の心を心として」という。なら「天の心とは限りなく美しくなることに精進することだよ」と。
 「地の心とはもういよいよ受けて受けて受け抜いて、黙って受けて行く、そして自分の心をいよいよ肥やして行く以外にないんだよ」と。「日月の心はいよいよ実意丁寧神信心」、言うならば「なそうと思えば子供でも成せる様な事を、疎かにしておった事に気付かせてもろうて心行。そしてその心行によって、今までなそうと思うておった、なそうと思えばなせる事を疎かにして来ておった事を成して行くんだ」と。
 例えばトイレットペーパーを折るとか、履き物を揃えるとか、いやそうせずにはおられない心に信行が出来ておる時、お風呂入ったらというて、お風呂の中でのマナーを私が何時も申します。それもいわゆる信行が出来ておるからそうせずにはおられない。「このくらいなことならばなそうと思えば子供でもなせる事を疎かにしてはならないよ」と言うて此処では説きます。
 ですから、先生が言うておることを日々行じさせて頂いておるとです。もう此処では朝の御祈念にでも参られる殆どの方が、そこが分かり「日々神様の働きにはもう恐れ入ります」と。という素晴らしいタイミングと言った様なものが生まれて来る。自然の働きと、いわば調和が取れて来る。教団で今言っておられる、言うならば宣言文というものに、どうすれば、そういう天地自然との調和が出るか、調和音を聞くことが出来るか、それを合楽では「リズムに乗った行き方」というふうに言っておるわけです。
 だから合楽の場合はその気になって稽古をすると、誰でもがそういう一つの天地のリズムに乗っての、言うなら信心生活が出来れる。「だから合楽理念をもってするならば、本当に教団が合楽理念をやっぱ取り入れなければいけないんだけれどね」と言うて話したことでした。だから皆さんは天地自然の、言うならば音律を聞きながら、苦しいことの中にも、楽しい嬉しいことの中にもです。
 例えば困ったことの中にですら、その天地の音律というものは、聞き取ることが出来るんだ。だから例えば「苦しいけれども、有難い。」というものが生まれて来るんだ。そういう実をね、言わば自分の情感でとらえて行く、という行き方からです。少しづつではあっても天地の親神様、「親神様じゃなあ」という情感がだんだん強くなり、濃くなってくるというわけです。
 昨日、日田の綾部さんがお届けをされましたが、先日から夜中に秋永先生が突然やって来た。そして「今日御祈念さして貰いよったら、綾部さんあなたの事をお願いさせて貰いよったら、あなたがもうそれこそ大きなあの支那あたりで見る城壁ですね、城壁の様なものの前に立っておられる。いわゆるそこに城壁にぶつかっておられる。だからこの城壁を乗り越えたり壊したりする事はとっても出来ない事なんだ。だからあなたの力でこれを、今の信心で例えばこれをなら乗り越えると言う事は出来ない。
 それでです、そういう難儀もひっくるめて神様のおかげだと言う一本で行きなさい。私はその事を思わせて頂いておったらね、これもおかげだと、例えば思わせてもらって御祈念をさせてもらいよったら、その城壁がそれこそ音を立てて崩れるところを頂いた。綾部さん、ああ私の信心がつまらんから、ああもう本当にめぐりが深いからと言った様なつまらんことは考えずに、もうそのこと一切をおかげと頂きなさい。
 おかげと頂けたところに、そのいうならば城壁のようなとても人間の力では壊れそうもないそれが、ガラガラと崩れ落ちるようなおかげが頂けて、そこから新たな道が開けるよ」と。例えば御祈念、それをよっぽど実感として、これはもう一時でも早う知らせにゃいかんと思ったんでしょう、秋永先生がその綾部さんところに来て、わざわざ福岡から日田までね、そのことを言いに来てくれたと。
 だから本当に確かにそうだと。これはあのおかげを頂くという、これはもう言うならおかげを頂くという奥の奥のこれは信心ですね。もうそのいろんな、例えば自分には御無礼が出来ておるからとか、信心が足りんからとか、めぐりが深いからとか、いろいろそういう言わば、秋永先生の言葉を借りると、「そげんしかとむなかことは考えなさんな」とこういうふうに言いますよね何時も。そして「もうそれひっくるめておかげだと悟れ」とこう言うのです。
 だからそのそれがね、日頃の信心が段々分からせて頂いてです。本当にどこにおかげの受けられん元が、あるだろうかと言った様な事をこう、そこまで行っておらなければね、なら是がすきっと頂けるものではないのです。言われたからと言うて。ああほんにそうですねと、例えば分かると言う所が、また神様が秋永先生を通して教えておられると言う事が、もうそこを教えてもよいという段階になっておられると言う事なんです。
 ひっくるめてね、「もうひっくるめて神愛だ」と、「もうおかげと頂く以外にはないよ」と。私がそう思うたら、その行かれんはずの大きな城壁のようなその前にうっぱまかっておるものが取れたお知らせを頂いたから、「綾部さん、もうしかとむなかことは考えずにもうおかげとして頂きなさい。してみるとね、文句もなからなきゃ、不平も不足もないじゃろうが、おかげなんだから、おかげと頂いたらそれでよかろうが」と言うてまあ力説したということなんです。
 それを昨日の研修の時に取り上げたことでしたけども、けれどもこれはね、私共がおかげを頂いて行く、もう言うならば、おかげを受ける決め手です、確かに。けれどもこれではね、なら神様の願いが成就したということにはならないのです。私共がおかげを頂くコツという、秋永先生なんかそういう大体タイプですね。おかげを頂くコツを非常にあの心得てますよ。もう本当にあの心得てますですね。
 昨日もでした。久留米の佐田さんが、お届けをされますのに、恵介君がもう高校一年生です。朝「行ってきます」と言って出かけたら、またひっくり帰って来てから「お母様お母様」ち呼ぶげなもん。あの人が「お母様」と言う時には、必ずなんかおねだりをする時だそうです(笑)。「お母様お母様」ちゅうてから後戻って来たげな、してから「五百円下さい」ち、まあ言うわけなんです。
 学校の友達になんか記念品かなんか贈らんならん、一緒に「だから五百円下さい」と言うて言われてもう、「この人はお母さんなちょごくくってしもうてから」と言うて、そのまあ五百円渡した後に感じたと言うのですよ。あれが「お母様お母様」と調子のいい事じゃなくてですね、「お母さん五百円頂だい」とこう言うとるなら、私は恐らく「あんた自分の小使い持っとるもんそれを使うときなさい」とこう言うたに違いはない。
 けれども「お母様お母様」で、ちょっともうちょごくられてしもうとる親の方が。そこに言うならば、もう本当におかげを受けるなんか非常に微妙なコツがあるです。秋永先生なんかそう言う所がある。「そりがあなた」ちゅうて思うただけで、おかげ頂くでしょうが。私が今度来たら、やかましゅう言わにゃ出来んと思うとってもですよ、「そりがあなた」ちこう言うならもう二の句がつがれんごたる感じです。だから信心にはそう言う所もあるです。秋永先生なんかそういう意味合いでの第一人者ですね。
 ですから今言う、その綾部さんに語ったと言う様な事なんかでも、これはもう秋永先生の十八番のような感じです。「もうおかげと頂きなさい。」とこう言うのです。けれどもこれは、なら人間氏子が、おかげを頂くと言う事だけになるでしょうが。おかげを受けるそういうコツ合い。おかげを受ける、また事実神愛なんだから、けどこれでは人間氏子、なら神様の願いはどこにあるかと言うと、神の願いは人間氏子が、向上すると言う事にあるのですよ。
 私共人間の願いはそれでかなえられるけれども、なら神様の願いが向上しない。だから、そういう一切が神愛と頂くと同時にです。そういう例えばぎりぎりの時には、「もう今まで改まれなかったが改まりますとか」「研きます」とか、「今までお日参りも出来なかったのが、お日参りでも出来るようになります」とか。何かそこに信心の向上が見られた時に初めて、「はあ神様がままになった」と言われる時なんです。
 だから人間がままになることのためには、そういう頂き方も素晴らしいけれどもね。けれども神様が喜んで下さる、神様が「今度の難儀な問題を通して、あれが二人見るように人間が変わった」と言うところに親の喜びがあるのです。だから親の喜びというものがあって初めて、親の喜びが子供に返ってきて初めて、親子の情感というものが通うのだということであります。却って親は、「またあれにしてやられた」と言うくらいな感じじゃないですかね。
 恵介君とお母様がそういう感じでしょうが。もうこの人は要領ばっかりよかと、そしてそればってんそのはがゆいとは思うとらんですもんね。やっぱそれでいて「お母様お母様」と言われるとを喜んどる。けれどもそういう一つの、一つの情感が通い分からなければ出来ない。それからすぐ御祈念に入らせて頂いたんです。そしてそのことを神様にお届けをさして頂いておりましたら、御神眼にねもう痩せ切れた、本当に痩せ切れた人の姿を頂いて、その人をある人が勢いよくパッとこう手を引っ張ったんです。
 そしたらここから手がプツッと切れたところを頂いたんです。私はそれを頂いてから、改めてまた思わせて頂いたです。信心者の中には幼稚園もありゃ小学校、中学校、それぞれの段階があるんだと。言うなら大学生が小学生の思いと言った様なものを言うても、「もうそげん難しかなら止める」と言うがとがやっぱおるようなもんだと言う事です。私はそれを昨日頂いてから、私の過去の体験にもそれがあったんだと。例えば「親先生」と言うて本当に涙流してやって来る。
 それを私が手を叩いて喜ぶ、「ああよかとこ通りよるの」と言うちから、そしたらそれがどげん言うかちゅうと、「先生が、こがしこ俺が苦しみよるとに手を叩いて喜んだ」と言うて、腹かいて信心を止めた人が確かにあるという事実なんです。私は本当に神愛だと分かり、これによらなければ信心は分からんと思うてあるから、手を叩いて、「ああよかとこ通りよるの」ちゅうて喜んだら、「先生が冷淡に私がこがしこ苦しんどるとに手叩いて喜んだ」と言うて、腹かいて信心を止めた。
 言うならば、昨日の御理解頂いて、ああこりゃやっぱり相手が幼稚園なら幼稚園のところまで下がって行かにゃいけんなと。相手が中学校なら、こちらが大学であっても中学のところまで降りて行かなければいけないなと。教祖様の御教えをひもとくと、もうみんなそうですね。だから御教えが大変不合理なと言う所があるわけです。彼には「右」と言われて、彼には「左」と教えておられるところがあるでしょうが。
 結局信心「参って来るな」と、「来んでもよい」とも言われたり、それこそ、「どげなことでもほうからかしてども参って来い」と難しゅう言われたり、結局信心の段階に於いて説いておられると言う事が分かります。だから今日の私はね、「神の綱が切れたと言うが」と言う事を今だんだん聞いて頂いたんですけれども、「神の綱が切れた」と言うて、なら私共が切るような場合があると言う事です。取次者が。またはお導きをする人が切る場合があるです。
 程度の低い人に、自分のなら少し程度の高い信心を、「こうですよああですよ」「ああとてもそげん難しからとても私共じゃ出来ん」と言うのと同じ事なんです。これは「いよいよ示現活動に参画させてもらう」と言う事であってもです。やはり世の沢山の難儀な人達を見て、自分の信心の程度で、度合いで話したりしたんじゃいけん。やはり苦しいと言うなら自分もそこまで行って一緒に苦しんでやるというくらいな気持ちが要るな。でないと無理に引っ張るとプツッと。
 相手は痩せきれとるのですから。血もなからな肉もないのですから、引っ張ったらプツッと切れるのですやっぱり。こげなことも昨日まあ研修後の御祈念の後に頂いたことでございましたがね。今日はここのところ、「神の綱が切れたというが」切るなというが、言うならお導きをさして頂く積りが、反対に手を切る様な事にならない様な信心も又させて頂かなければならんと言う事ですよね。
   どうぞ。

 今の秋永先生が綾部さんに「神愛ですよ」と。「一切をおかげと頂け」とこう言うた。綾部さんだから、どっこいとそれを受ける気になったけども、程度の低い人に「それば神愛とどうして受けられるか」という、「とてもそげん難しかなら」と言う事になるという一つの例話ですね。秋永先生と綾部さんの問答はね。だからもうここで気合いを入れりゃ、頑張ることが出来るという見極めがつかなければ、そこの無理に手を引っ張ると言う様な事は出来んと言う事が分かりますですね。